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茶の間考

茶の間を辞書で引くと、「家族が食事や団欒する部屋」「茶室」とある。家族団欒の部屋がケ、日常の空間であり、お客さまをもてなす茶室はハレ、非日常の空間である。日本人は古来からハレとケを明確に区別してきた。

そう考えると、茶の間は、日常と非日常が混在している不思議な言葉である。元々、もてなす座敷に囲炉裏を切り茶の湯をしたことから、茶の湯の間、茶の間が生まれる。かつては表座敷といわれ、お客さまをもてなす空間が家の中心であった。しかし、明治以降、家の中心はお客さまから家族へと移り、日常茶飯事の家族団欒の間、茶の間が出来、今やリビングが茶の間に取って代わった。そして茶の間という言葉もなくなりつつある現代、もてなす意識の低下はやむをえない。

家族中心の家造りが悪いわけではない。ハレとケの思想の欠如が問題なのだ。茶室における躙り口、民家における縁側、大戸口に潜り戸を付けたり、勝手口を設けたり、日本人はハレとケの出入り口を区別してきた。お客さまを迎えることは神さまを迎えることであり、もてなしは日本人の心の原点であった。そしてお迎えする玄関こそが大切なのだ。集合住宅も多くなり、出入り口を分けることはより困難になってきた。ハレとケのごた混ぜ状態は、無意識の内にお客さまの来訪を拒否することになる。しかし、建築家の知恵をもってすればハレとケの機能をもった玄関作りは可能であろう。

家庭におもてなしの入り口がなくなり、もてなし文化の中心は必然的にホテルや旅館、外食産業へと移っている。


山の民の茶

日本人はいつからお茶を飲んでいたのか? この素朴な疑問を解く鍵が九州地方に存在する。わたしもしばしば訪れる九州山地のほぼ中央部、平家落人伝説が伝わる宮崎県椎葉村。尾根向こうは熊本県、北は神々の故郷、高千穂につながる。この地域一帯はヤマチャが自生する。ヤマチャとは関東以西の山地に自生するお茶のことを言う。

この深山幽谷の地で、現在も焼き畑農業が継承されている。人里離れた山奥で焼かれた大地からまず芽を出すのは、茶の樹であるという。茶の生命力と神秘性を感じさせる話である。山の民はいつのころからか、茶の葉を枝ごと刈り取り、火であぶり、お湯を沸かし、葉を突っ込み、煮出して飲んでいた。

しかし、ヤマチャがもともと自生していたものか、栽培茶から野生化したものなのか、はっきりしたことは分からない。というのは、茶の本格的な伝来は文献で9世紀嵯峨天皇の時代、遣唐使の僧によって中国からもたらされたのが最初とされているからである。詩人、能書家、そして音楽家でもあった嵯峨天皇は、当時の流行をリードしていた。宮廷貴族の間では唐風文化がはやり、そのアイテムの一つがお茶であった。

当時のお茶は茶葉を蒸し、つき固めた団茶と呼ばれるお茶であった。このお茶をほぐして粉末にし、煮出してショウガや塩などで味付けして飲んだ。山の民の素朴なお茶とは全く違う、大変手の込んだ作りであった。そして畿内周辺の国々にも茶園が作られる。わたしたちが文献で知り得るのは、このように支配者層、限られた少数の日本人の歴史や文化である。中国から茶と喫茶法が伝来したことは事実だが、文献に表れない民衆のお茶があったことは、九州の山の茶を見聞すれば想像できる。既に天平時代(8世紀)からお茶が飲まれていたとの古記録もある。さらにさかのぼると縄文期の遺跡から茶の実発見の報告もある。500万年前の茶に似た化石も発掘されている。自然環境的にも、中国渡来以前から日本に茶の樹は存在し、飲用されていたと考える方が自然であろう。



茶の文化フォーラム主宰
武家茶道 茶人
壷中庵 宗長 
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